芸術とプログラミングはとても強い関係があると思っています.そう思ったので,僕は会社をさぼって美大に通い,勤務時間中に油絵を描いていたり芸術について考えていた時期があるほどです.
なぜ関係があるか.それは,これからいろいろな仕事がコンピュータに奪われたときに,究極的に人間に残される(コンピュータと戦える)のは創造性だと考えるからです.
ここ数日,論理的思考をいじめていますが,コンピュータに奪われる筆頭にあります.人間の数倍どころか数億倍も論理的に考えるのが得意ですから(えっと,論理的思考の定義は面倒なのでしません.その程度な話です).
その他,ありとあらゆるものがコンピュータに奪われます.たとえば,おいしいラーメン屋を選ぶ審査員とかもたぶんコンピュータに奪われると思う.それくらいやばい.
その時になにが残されるか.それは創造性です(もしかしたら,それすらも奪われるという意見もあるかもしれません.そのときはそのときですね).
僕が大学にいたころ,大学の工学部の中にコンピュータの学科があって,でもなぜか工学ガチガチじゃなくて,創造的なことが好きな人たちがその学科に引き寄せられてるという印象があります.ほかの学科が創造的じゃないとは言ってませんが,コンピュータが持っている創造の巨大さはとてもじゃないけど真似ができません.だからそういう人たちが集まるのだと思ってました.
僕はコンピュータは粘土だといつも言ってます.コンピュータに最初に触れたときにそう思いました.しかも,粘土だとせいぜい見本を作るぐらいで,プロトタイプの域は出てませんが,ソフトウェアのすごさは,粘土のように自由に変えられるのに,そのまま製品として使えてしまうという,工場を飛び越えたすごさがありました.コンピュータの製品性はオブジェクト指向とかソフトウェア工学とかで,どんどん高まっている一方で,コンピュータの粘土性をもっと高めるにはどうしたらよいか,というのが僕の研究テーマでした.
でも,ソフトウェアの粘土性を高めてなんでも簡単に作れるようになって,はいどうぞ作ってくださいと言ったときに,何を作ればいいんでしょうか.みんなの中に作りたいものなんてあるんでしょうか.
子供は創造性が豊かだといいますが,間違ってます.子供には創造性を遮るもの,たとえば常識とか理性とか,そういったものが無いだけです.成長に従って常識や理性が伸びてくると,とてもじゃないけれども創造できないとなるのです.
逆に,ちゃんとした芸術家は常識や理性を平均以上に持ちながら,創造をしています.とても尊敬します.そのからくりを知りたかった.どんな教育をすればそんな人を育てられるのか(そもそも育てるものでもないのかもしれません).その創造をしている人たちは,どういう工夫や努力で自身の創造性を高めているのか.
人間を2つの軸で分類したとしましょう.一つの軸はプログラムが書ける人と,書けない人.もう一つの軸は,自分で新しいことを考えらえる人と考えられない人です.
まず,プログラムが書けなくて新しいことも考えられない人.この人はきっと他の何かの領域で優れているのでその分野で頑張ってください.分野なんて,人口の数くらいあるはずだから,きっと見つかります.
逆にすごいのは,プログラムが書けて新しいことを考えられる人.ここがみんなが好きなビルゲイツだったりザッカーバーグだったり,すごい人は夢の上ですが.もちろんそこまですごくなくても,日本国内でもその領域で成功している人はたくさんいます.
では残りの二つ.プログラムが書けるけど,新しいことを思いつかない人と,新しいことを思いつくけど,プログラムが書けない人.この両者はどうなるのでしょうか.
答えは,新しいことを思いついた人が会社を作って,プログラムが書ける人はその下で働く,ということです.プログラムが書ける人が就職する会社はいろいろとあるでしょうが,就職先の社長の理解がとても大事です.ITで成功した会社に共通したことだと思います.社長がプログラムが書けるか書けないかの違いは,その会社のプログラムを書ける人たちへの待遇の違いに大きく現れるはずです.プログラムが書けない社長は,自分ができないスキルの重要性を知りません.金で買えるスキルという見方をするでしょう.ところが大事なのは新しい発想であって,言われたことをそのまま作れる能力はいくらでも替えがきくのです.
おっと,眠くなったのでここで中断.もしかしたら続きは次に酔っぱらったときに書くかも.