粘土というコンピュータ観

プログラミング教育の話題が色々な人に拡がるなかで,いろいろな批判をいただくけれど,どうも話が噛み合わないということも出てきました.なぜうまく伝わらないのかを考えて行くと,これは根本的にコンピュータというものを何だと思っているのか,というところに行き着くのだろうという気がしてきました.それで,ちょっと整理してみたいと思います.

まず,コンピュータの話題の中でソフトウェアにフォーカスをあてます.ソフトウェアには今までのものにはない画期的な性質が二つあります.

一つは,粘土のように自由に簡単に変えられるという性質です.僕が初めてコンピュータ(というかマイコンといってLEDの数字がチカチカしているもの)を触った時の感想が「これは粘土じゃないか」だったのです.それまでの僕は,トランジスタとかTTLのICとかを半田付けして色々な回路を作って遊んでいました.ボタンを押すと数字が増えて行く回路とか.お金が無かったので,次の回路を作りたければ,前の回路の半田を外して,部品を再利用してました.そういう遊びをやっていたときに,コンピュータが目の前に現れて,数字をちょっと変えるだけで,半田を付け付けたり外したりしたのと同じことができることに感動したのでした.コンピュータを最初に触ったときにこれに似たような感想を持たれた方が多くいらっしゃるように思います.まさに,ソフトウェアという名前の通り柔らかいものです.

もう一つのソフトウェアの特徴は,工場を通さずに直接製品化できるということです.ネット上での販売が一般化してきて,個人でもどんどんアプリを売って稼げる時代になりました.こちらは,とてもお金が儲かるので,とくにインターネットが広く普及するようになってからは,こちらの性質にフォーカスが当たった話が多くなってきました.ソフトウェアやプログラミングに関する話題も,新しいプログラミング言語もほとんどがこちら側の性質を向上させるものです.たとえば,ソフトウェアのテストをしっかりやって品質を保証するとか,インタネットにつながっている悪い人たちから守るような仕組みとか.

この製品化の進歩のおかげで,僕もこうやってブラウザの上でデータが消える心配なく文章を直接入力できるわけですし,安心できるからコンピュータに社会基盤を任せようということになったわけです.

しかし,これを推し進めれば推し進めるほど,ソフトウェアは固くなります.重要なのは製品としての性質・性能であって.いくら柔軟に作れても製品として使えなければ意味がないわけですから.

ところが,ビスケットはあきらかに粘土としてのコンピュータを目指しています.製品化を捨てて,すぐに作れて結果が出ることを重視しています.

教育にプログラミングが入るというのも,最初の目標はコンピュータとは何かを知るということですが,その先には,プログラミングを教育自身に応用しようという目標があります.何かを学ぶために,グラフ用紙やコンパスなどと同じようなツールの一つとしてプログラムを作って学ぶということです.このような用途では,製品化よりも粘土としての性質が重視されるでしょう.さらに,将来は家庭にもプログラミングが入るだろうと予測していますが,これもまた粘土性が重視されるでしょう.

というわけで,粘土性を向上するプログラミング言語は,このところさっぱり進展する気配を見せませんでしたが,プログラミングが子供も含め市民のものになるに従って,注目を浴びるのではないかという期待を持っています.

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